馬の国から2〜馬の獣医はポニーテールが好き〜

獣医師。酪農学園大学獣医学部卒業後、神戸の動物病院で4年ほど勤務し、命の重みを毎日痛感。結婚後移住した北海道の町には小動物の病院がひとつも無いという、このご時世大変びっくりな展開を経験する。現在新種の生物(息子)と格闘しながら、将来臨床への復帰を目指して再勉強中です。地域の子供達と動物の健全で安全な触れ合いの時間を作ることが、学生の頃からの密かな目標。・・ただの動物好きなので、いろいろな動物に関することを幅広く書いていきたいと思います。

春・・それは馬たちが一斉に子を産み、そして次なる子を授かるべく馬も周りの人間も奮闘する季節・・。3月から6月までのシーズン中、馬に関わる全ての人はほぼ休みがなくなります。ひとえに馬が春、年に1回の発情期を迎え、さらに妊娠期間も335日と長く、産むのも春なら種付けも春という動物だからです。

さて、そんな中今日も薄汚れた往診車が日高の野山を行ったり来たり・・走行距離は1日に300kmになることもあるという、乗り回しているのはとある獣医師であります。今日は春の馬産地で糞尿にまみれて闘う、馬の獣医師のおおまかな情報をドキュメンタリー形式でお届けしようと思います。

—朝3時に陽がのぼる、春の北海道の夜明けは非常に早い—

5時。泥だらけの往診車の中に吸い込まれていったのは、今年勤務7年目を迎えそろそろ中堅にさしかかろうかという、とある診療所の獣医師・ノムラである。見た目は汚くとも、どこに何の薬剤や器具があるかはきちんと把握している。最近息子が生まれ、仕事にも一層身が入る。

馬産地(に限らずか?)の獣医の仕事は幅広い。産科や小児科、その他一般診療を一通りこなさなければならない。

これから馬が朝の放牧をされる前に牧場に出向き、種付け時期を判定する直腸検査を行う。ディープインパクトクラスになると種付け料は1500万円※。朝から責任重大である。ちなみに直腸検査1回あたりの技術料は1500円というから何だか何だか。

(※ディープインパクの子たちが大活躍しているため、平成26年度から2000万円に値上りしました)

彼が馬の獣医になった理由を聞いてみた。

『ポニーテールが好きだから。』

AKB48の曲が頭をよぎる。その言葉の奥には、親の仕事柄小さい頃から馬が周りに居る生活を送ってきた彼が、馬を好きになるのにそう時間はかからなかった、という意味が隠れているはずだ。馬を好きになるのに理由などいらないのかもしれない。それにしても、子馬の“ポニーテール”ほど愛らしいものはない。

新米時代

彼にも新米の時代があった。最初はベテランの先生について回り、一番最初にした仕事は『種付けの立ち会い』である。サラブレッドは人工授精が禁止されているので、全て自然交配により子孫を残す。馬の新米獣医師の初仕事は、そんな馬たちの種付けを温かく見守る事であった。

しかしその仕事、新米にとっては極めて重要である。種付け場に来るのは“発情きてます!種付けOK!ウエルカム!”な雌馬ばかり(のはず)。どのような徴候が雌馬に見られるのかなど、後に自分が発情鑑定をして種付けのタイミングを生産者に伝える際、それが重要な判断材料の1つになるのだ。

それにしても、シーズンまっただ中の馬の世界にいきなり飛び込んで行くというのは、なかなかハードである。4月から初めて社会に出て早々、6月が終わるまで休み無しなのだから。砂利道で往診車がひっくり返ったこともあったと言う。本来ならこれから相棒となるべき往診車は早くして廃車となった。

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そして今

—あれからいくつもの春が過ぎた、と、メガネの奥で細い目を細める。直腸検査や診療をこなしているうちに時間は朝7時半。少し休憩、朝食をとる。妻が作ったおにぎりか、妻が寝坊した日は山菜を採って食べる事もあるようだ。

腹ごしらえをしたら往診診療に戻る。この時間は怪我をして放牧できない馬たちの診療が主だ。それが終わると繁殖クリニックで来診を行う。ここでは生産者が連れて来た馬の妊娠鑑定や子宮洗浄、裂けた陰部の縫合などをする。美人な女性獣医師が待機している日は、来診数が増えるという。

そうこうしていると、あっという間に昼になる。少しまとまった休憩をとれる日もあれば、朝に回れなかった診療や手術が入り休めない事も多い。そのまま夕方の診療、再び直腸検査・・と続き、最後にカルテ処理などの事務作業をして1日が終わる。時計は7時。生き物相手の仕事である、夜間当番であればここからまた難産介助などで呼び出される事も稀ではない。世間が浮き足立つGWに馬の繁殖シーズンはピークを迎え、帰りが9時10時になる事もざらだ。それでもこの仕事を選び、続けている。

『自分の関わった馬がレースで活躍した時、なんとも言えないやりがいを感じる。』彼は毎回競馬新聞で出走馬をチェックする。それはノムラだけでなく、全ての競走馬に関わる獣医師に共通する喜びであろうか。車がひっくり返っても、子馬の診療中に母馬に蹴られても、後で食べようと思っていたポテトチップスを妻に食べられていても・・皆の期待を背負って風を切る馬を見ると、また頑張ろうと思える。

今日も土埃——のほこりは誇りでもある——がついた車を走らせ、馬のために、家族のために、そして馬を愛する自分自身のために・・キトピロが群生する野山を、馬の獣医は駆け回るのであった。

馬の国から3〜門別競馬場グランシャリオナイター〜

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